歴史小説に思うこと 国盗り物語編

どーも、くれです。

 

歴史小説といえば、10代の頃、戦国時代のものが大好きでした。

三国志なども読みましたが、やはり、古典的で他国のものは歴史絵巻を観てる感じで、親近感が湧きづらいところがあります。その点、日本の戦国ものは、登場人物に親近感が湧き易く、主人公に成り切って話に没頭しやすい感覚があります。その中でも司馬遼太郎先生の「国盗り物語」は格別でした。

斎藤道三の超人ぶりと、野望がどんどん具現化していくストーリーは、10代の血気盛んな心にぐっさり刺さりました。

絶対男に心を許さないと思われる女性に対し、道三は高い教養と風流のセンスで近づきます。女性がほんの少しヴェールに隠された内面を覗くと、活火山の様な野性が垣間見えて、女性の心が、かき乱されていきます。そしてその女性は、得体の知れない道三に恐れを抱きつつ、本能では惹かれていき、恋焦がれていきます。そこで野生的に力任せにいくと思わせておいて、あくまで最後は「理」で相手を落としてしまうところが、見ていて、もう~ぞくぞくしちゃいます。

 

私が、斎藤道三に対して、そんな惚れこみようなので、レビュアーとして不謹慎な話ですが、この物語、いつも2巻の途中で読むのをやめてしまいます。

斎藤道三が、斎藤義龍に滅ぼされるシーンが、やるせなくて、読んでられないのです。

元主君から手品のように奪った妻が、懐妊し生んだ子供は、自分に全く似ていない立派な若武者となり、自分を滅ぼしにくる。その時、道三は、妻が運命に翻弄されつつも、元主君との子を身籠もっていたことをひた隠し、守り抜いたことを確信します。それは、妻の愛憎の結晶であるといえ、人の心を「理」で手玉に取ってきた男が、最後に奪いきれなかった人の心、愛に滅ぼされてしまうのです。

さて、私が嫌なシーンは読み飛ばし、先に話を進めると、その後、急に物語は、信長、秀吉、光秀と、主人公が切り替わり、最後の主人公光秀が、本能寺の変をなぜ起こしたのか?という謎に、光秀の軌跡を第三者目線で追いながら、迫っていきます。

光秀にとって、この物語で、繰り広げられた斎藤道三から、竜興、信長、秀吉による美濃国の興亡が、まさに彼のバックグラウンドだったことに気付かされます。

彼の中で、主君は一体誰だったのか、彼の青春、憧れ、叶わぬ恋、功名心が、青年期から壮年期を迎え、一つの人格の素地となっていると感じたときに、言葉ではなく、感覚で、それこそ人それぞれの感じ方で、本能寺の変を見ることができます。

是非、興味のある方は、読んでみてください。

 

でわでわ〜